こんにちは、シエスタです。 『M74:七四式夢想砲』の舞台は1874年アメリカです。 一応、お忘れなきようお願いします。 この時代、日本では明治7年。各地で士族の反乱が相次いだり、 三条実美・大久保利通らの遣欧使節団が派遣されていたころです。 東洋の蛮国でした 一方、欧州では帝国主義を採るドイツ・フランス・イギリスの 列強が植民地を獲得し続け、ドイツはついにフランスを追い越し、 ドイツVSイギリスの構図が出来てきた頃です。 (アメリカは工業力の拡大と西部開拓に明け暮れてます) さてこのドイツ帝国はかつてプロイセン王国と言い、 日本の夜明けにおいて、モデルとした国の一つでした。 この国の歴史について。 |
|||
プロイセン王国の歴史はドイツ騎士団領と ブランデンブルグ辺境州から来ています。 ・ブランデンブルグ辺境州 神聖ローマ帝国がスラブ人侵入の防壁として設置した地域。 この地域を支配するに辺境伯は、選帝侯(皇帝選挙権を持つ七人の諸侯) のうちの一人に任命され、すごく重要な地位にありました。選挙権は大事です。 ・ドイツ騎士団領 第3次十字軍に従軍したドイツ騎士団は、異教徒に対する 尖兵的な思想を持っている独立した軍事組織で、 アッコンやパレスチナなど激戦地を転々とします。 強いけど使いにくい連中だったのだと思います。 第4代騎士団総長へルマンは、ハンガリー国王の招きに応じて トランシルヴァニアに移り、異教徒と戦います。やがて騎士団長へルマンは 「騎士団の国」を欲し、ローマ教皇にハンガリーの一部を切り取らせますが、 ハンガリー国王は激怒。ドイツ騎士団はトランシルヴァニアを 追放され、バルト海南岸、ワイクゼル河流域に入り、 自らの領地をプロイセンと呼ぶようになりました。 その後、ドイツ騎士団は隣国ポーランドとの戦争に敗れて、 ポーランドと臣従関係のある属国とされますが(この辺が騎士たる由縁?)、 1510年に騎士団総長となったアルベルトは、ルターの宗教改革を 受けて世俗化し、ポーランドの宗主権の下で普通の国とでもいうべき プロイセン公国となります。さらにアルベルトはブランデンブルグ辺境伯と 血縁関係にあったため、アルベルトの血統が絶えると、 プロイセン公国は辺境伯の「飛び地領地」となります。 ちなみにこの騎士団は、現在も慈善団体として存続してます。 (ドイツ騎士団 「Deutscher Orden」) |
|||
その後、ブランデンブルクを含むドイツの各地は、 30年戦争(1618〜1648)で、「北方の獅子王」グスタフ2世アドルフや 「傭兵将軍」ヴァレンシュタインらの戦いに巻き込まれ、徹底的に破壊されます。 フリードリヒ・ヴィルヘルム大選帝侯は、この戦争の惨禍から 見事にブランデンブルクをを復興させ、ポーランドからプロイセン公国の統轄権を奪い、 「プロイセン王国」を作り上げました。この頃から、軍の主体は傭兵から常備軍へと 変わっていきます。 18世紀に入って、プロイセン王家は、 粗暴で無教養ながら軍を鍛え上げた「兵隊王」(1713〜1740)のあと、 屈指の名君と言われるフリードリヒ大王(1740〜1786)を輩出し、プロイセン王国は 急速に成長していきます。次の代フリードリヒ・ヴィルヘルム2世の時代には、 プロイセンは20万を超える常備軍を持ち、2つの候国を併呑し、ポーランドを滅ぼして 広大な領土を獲得します。 しかしここで一大転機が訪れます。 砲兵出身の軍事的天才、ナポレオン・ボナパルトの台頭です。 |
|||
ナポレオン・ボナパルト(1769〜1821)! この男が起こした「ナポレオン戦争」は、ヨーロッパ全土に広がり、勝利に次ぐ勝利で まさに常勝将軍。世界の戦争の概念を一変させました。 とりわけ、「師団編成」というものを考え付いたことが、 軍事的に言ってまさに革命でした。それまで軍隊は総数も不確かで装備もバラバラ、 命令系統も複雑で、柔軟で迅速な運用は極めて難しいものだったのです。 ナポレオンは、フランス軍全軍を、8000人の兵で構成される「師団」と、 2〜3個師団からなる「軍団」に再編成しました。これは現在も軍隊で残っている制度です。 プロイセンは、このナポレオン率いるフランス軍と1806年、「イエナ・アウエルシュテットの戦い」で 激突、瞬く間に破れ、ベルリンを占領されます。ポツダムで城下の盟(降伏)が 行われ、プロイセンは所領の半分を削り取られ、莫大な賠償金を払わされます。 『戦争論』の著者クラウゼヴィッツは、このナポレオン戦争にプロイセン側に立って従軍し、 敗北を目の当たりにします。彼は捕虜になり、しばらくパリに抑留されますが、 その間ナポレオンとフランスへの恨みは募っていきました。降伏後、彼は解放されてベルリンにもどり、シャルンホルストらと共に軍事改革に着手します。ここで生まれたのが、 世界初の独立戦略機関、「プロイセン参謀本部」です。 しかし1812年、プロイセンはフランスと軍事同盟を結び、 プロイセンはフランスの対ロシア作戦に協力を強いられます。クラウゼヴィッツは それが気に入らず、愛するプロイセン軍に辞表を叩きつけて、ロシア軍に入隊します。 ロシア軍は、モスクワすらも焼き払って退却し、冬将軍の到来を待つという 「焦土作戦」を用いてナポレオン軍を壊滅させるのですが、そこにロシア軍司令部の クラウゼヴィッツの存在は関係したのかどうか。 |
||||
クラウゼヴィッツとシャルンホルスト、グナイゼナウらが築き上げた、「参謀本部」は 大モルトケを総長に7週間でオーストリア軍を壊滅させ、脚光を浴びました。 また、クラウゼヴィッツが残した「戦争論」はモルトケ自身が 「自分に最も影響を与えた書物」としているそうです。 |
||||
ロシアにて一敗地にまみれたナポレオンは、その後どうなったか。 不敗神話の崩壊と共に各国がナポレオン包囲網を敷き始めます。 第一に動いたのは、プロイセンでした。オーストリア、スウェーデン、ライン同盟がこれに加わります。 連合軍は数で勝り、それでもナポレオンは局地的に勝っていたのですが、 メッテルニヒとの和平交渉が失敗し、ナポレオンは追い込まれます。 彼はライプツィヒに主力を結集、「諸国民の戦い」(1813年)が開始されます。 16万のフランス軍に対し、連合軍33万は包囲攻撃を仕掛け、フランス軍は完全敗走。 その後ナポレオンは帝位を失脚、エルバ島脱出、100日天下、ワーテルローの完敗とあって、 ついにナポレオン戦争は終結するのです。 鉄血宰相ビスマルクは、このナポレオン戦争を教訓に、ビスマルク体制という形で ヨーロッパを席巻した天才政治家です。普墺戦争時、ウィーン入城を主張した参謀本部に 断固反対し、講和条約では対フランスを見据えて、オーストリアの好意的中立を保つため、 領土・賠償金を伴わない異例に寛大な条件を提示します。 彼はどのような巨大な軍事力を持っていても、ナポレオンのように 一国で孤立すれば、いずれは潰されることを知っていて、 外交上孤立することを最も恐れていたのでした。 フランス打倒後はその復讐を恐れ、フランスを孤立させ、各国と同盟します。 彼ほど自在に外交を操った政治家は古今例がなく、各国は緊張状態で縛られ どこも迂闊にドイツに手を出せない状態になり、しばし平和が続きました。 このビスマルクの作り上げた外交的芸術が「ビスマルク体制」です ビスマルクが皇帝と仲たがいして引退した後、あっというまにドイツは各国に包囲され、 ドイツは第一次世界大戦で屈辱的な敗戦をくらうのでした。 |
|||